So-net無料ブログ作成
  • ブログをはじめる
  • ログイン

「けいおん!」にみる身体化された文化資本 [アニメ]

snapshot20091208163613.jpg
再びけいおんネタ。

主人公であるバンドのメンバー4人の中の一人に琴吹紬(ことぶき つむぎ/通称むぎ)というキャラクターがいる。琴吹はアニメにおける記号的キャラの代表格である「金髪ロングヘア」「丁寧な言葉遣い」「親が会社経営」「ティーカップで紅茶を嗜む(学校でも)」という典型的な「いいとこのお嬢様」である。その「お嬢様キャラのテンプレ・イデア」の具現である琴吹は例によって我々(誰だ)の期待を裏切らない浮世離れした言動を以て、バンドメンバーの中に丁度いい具合にカオスを生み出していくのだが、その中で気になる描写がありそれについて思う事があったのでちょっと書いてみる。

琴吹は劇中で、毎日学校にティーセットとお菓子を持参してきたり、ファストフード店が初めてだったり、値切りに憧れたり、楽器の購入のために行った店が実は親の会社の系列店だったり、合宿を提案したら普通に別荘を持っていたりと、一般人にとっての常識はブルジョアという別次元の存在である琴吹によって悉く非常識にされてしまうのだが(その逆も然り)、その時彼女は自らの一般的な常識についての無知を隠さないのである。恥や外聞も無く、目の前の物事について無垢な子供のように振る舞う。

上流階級の存在には二種類ある。「血統型」と「成り上がり型」である。「血統型」は文字通り代々受け継がれる血統がその身分を示し、生前から既に上流階級の集団に属し、ブルジョア文法が当人の全ての価値観を構成する根幹となるというものである。対して「成り上がり型」とは上流階級に属さなかった人間が、それらに対して嫉妬と羨望の眼差しを向けながら自らもその集団に属する事を希求し、知識や金をのし上がるための「武器」として利用し努力の末にその地位を勝ち取った者である。

一見すればどちらも同じ上流階級である。金があり、学歴があり、地位があり、資本がある。だが、両者の間には決定的かつ絶対に埋める事の出来ない差がある。それは、当人の「文化資本に対する態度」である。

「育った環境で自然に身についた芸術鑑賞眼の持ち主には「余裕」があるのである。「そうとは感じられぬうちに早期からはじまり、ごく幼い時期から家庭で行われる体験的習得」を通じて芸術鑑賞の能力を身につけたものと、「遅くからはじまり、系統的で加速された習得形態」を通じて同じ能力を身につけたものでは、作品を前にしたときの「ゆとり」に差が出るのである。」                               内田樹著「街場の現代思想」(NTT出版)


よく上流階級のパーティーなどで自分より地位や名声、人望が上である人間に対して嫉妬の感情を以て集団を形成し、陰口をたたいているという光景が演出されるのを見た事があるだろう。「成り上がり型」はその嫉妬を動機として自らの地位を形成してしまったが故に、彼らは何についても常に「血統型」と比較するため彼らに対して一歩遅れ、無意識の内に劣等感に支配されているのである。そしてそれは自身を形成するあらゆる要素について回り、彼らは自らの言動によって自分たちがそこに縛られ続ける事を否応なしに認識させられるのである。

だが、そんな事は露知らず。「血統型」の彼らはその振る舞いや物事に対する態度について何かと比較する必要は無く、そもそも彼らは自らの存在の定義において彼ら自身の存在以外を全く考慮していないのである。だから「成り上がり型」とは対称的に彼らは何を見るにしても行うにしても自らの価値観以外のものさしを持たない。そのため他人に対しての尊敬、羨望はあっても劣等感や嫉妬とは無縁なのである。別にこれは私が勝手に言っているワケではない。先人達がそう言っているのである(と先人達もそう言っているのである)。

知らない事について「知らない」と臆面も無く言う。「知ったかぶり」を知らず、変に気取らず恥や外聞も無い。自分の属する階層が一般のそれとあまりにかけ離れている事を知らず、非常識を露呈している事に気付かない。そして自らの才能を才能と認識しておらず、度々周囲を唖然とさせてしまう。

「けいおん!」の中で合宿で海に行くエピソードがある。そこで琴吹は砂浜で城を作っているのだが、それを見たメンバーにこう漏らすのである。

「気がついたらこんなになってて(苦笑)。」

屈託の無い顔で言いながら身の丈はある程の細かく造形された砂の城を造る琴吹は正に「身体化された文化資本」そのものである。あの様な砂の城を作れる事からも、恐らく彼女にはピアノ以外にも無意識の内から体得された芸術鑑賞眼や技術があるのだろう。無意識の内から体得された文化資本は当人とって「文化資本」とは認識されないが(当たり前の事だから)、そうでない人にとっては意識して会得した文化資本は常に価値の多寡や貴賤という「俗」な価値観にさらされ、「そうである人」は常に羨望や嫉妬、尊敬の眼差しで見られ、その差は大抵圧倒的である事が多い。そして何より本人にはその自覚が無い。

全く羨ましい限りであるが、同時に畏怖すら覚えてしまう。そして、それらをこうして認識し文章に書き起こしているという行為それ自体が、私自身が一般人であるという事を否応為しに気付かせてしまうのである。それは今この文章を読んで同意した人も同様である。

nice!(1)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アニメ

nice! 1

コメント 1

お名前(必須)

うむ
by お名前(必須) (2018-01-05 19:47) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました